メモ

(追記)現在は問題の点は修正されています。

坂村:それは少し、誤解があるなあ(笑)。当時の日本のコンピュータメーカーは、みんな大型計算機からIBMコンパチ(IBM互換パソコン)に切り替えてビジネスを展開していました。
そこで通商産業省(現経済産業省)が「日本独自のコンピュータを作る」ために、「第五世代コンピュータ」という国家プロジェクトを立ち上げたんです。
そして人工知能コンピュータを作るという話になり、アメリカでは人工知能の研究がどこまで進んでいるか、予備調査をしてこいと言われ、アメリカに行くことになったんです。最初に行ったのがスタンフォード大学
(略)
そして第五世代コンピュータプロジェクトが始まると、メンバーから外されてしまったんです。また当時はマイコンが出始めていた時期で、大型コンピュータで負けたんだから、組み込みをやった方がいいと僕は考えていましたから。

https://codeiq.jp/magazine/2015/04/22888/

第五世代プロジェクトは1982年~1992年で、その予備調査の時期なのだから(「始まると、メンバーから外されてしまった」とある*1)1980年代前半のことであり、「IBMのパソコン」IBM PCの発売は1984年だから、互換パソコンどころかその元すらまだ存在しない(PC/AT互換機ビジネスが本格的に展開したのは90年代である)。1982年のいわゆる「IBMスパイ事件」(wikipedia:IBM産業スパイ事件)騒動などといった、大型計算機における1970年代頃からのIBMプラグコンパチブルマシンのビジネスと、それがアメリカから厄介視されていたことを指している。*2
なお、発言中の「みんな」は正確ではなく、シェアにおいてトップ2の富士通と日立のそれぞれ「FACOM Mシリーズ」「HITAC Mシリーズ」*3IBM互換であったためシェアとしては多かったが、日本電気ACOS、三菱のCOSMOはIBM互換ではない(1970年代の業界背景については情報処理学会コンピュータ博物館の「国産メーカの3グループ化」を参照 http://museum.ipsj.or.jp/computer/main/0027.html )。

以下は想像だが

第五世代プロジェクト関連ということだからいわゆる high-level language computer architecture が調査対象だったのではなかろうかと思うが、1980年代当時の米国の日本に対する全般的な危険視だけではなく、学界の政治的意向もあって第五世代プロジェクト自体も注視されていたという背景があり(ACMの学会誌CACMの1983年9月号の表紙など http://cacm.acm.org/magazines/1983/9 *4)、そういった所に「Automatic Tuning of Computer Architectures」や「Adaptation and Personalization of VLSI-based Computer」といったむちゃくちゃ刺激的なタイトルでアメリカで学会発表をしているKen Sakamuraが来るとなれば、そりゃ「裏蓋を閉めろ!」となるのは、誤解もなにも「さもありなん」と私には思える。*5

*1:とある本に書かれているが「そんなことよりマイクロプロセッサやろうぜ」という坂村先生の主張に対して、5G計画のある主要人物からはかなり辛辣な言葉もあったという。つまり対談の冒頭から非常にきわどい話題を(敢えて、か?)村井先生は振っていて、また録音を聞くとわかるが、その後の流れで第五世代プロジェクトの中に居た人がそこにいる、とか名指ししていて、かなりきわどい。

*2:そこで、「後追いと言われないようなものを一発やってもらいたい」という通産省の発想と、コンピュータ科学者である渕先生の思想・野望が数奇な流れのもとに一致し(詳しくは『渕一博 その人とコンピュータサイエンス』を参照

渕一博―その人とコンピュータサイエンス

渕一博―その人とコンピュータサイエンス

)第五世代プロジェクトとなるわけだが、それはとてもここでは語り切れない。いわんやTRONプロジェクトにおいてをや、である。将来の科学技術史学者が興味深く思うだろうと私が考えている点を一つ挙げるならば、渕先生と坂村先生とのどちらにも大きな影響があった一人に相磯秀夫先生がおられる、ということである。

*3:「Mシリーズ」の「M」は通産省(MITI)のMの意を、F・H両者が含めたものだという。

*4:穿った見方としては「うかうかしてると日本に追いつかれるからもっと研究予算を寄越せ!」という学界から実政治層への揺さぶりだという説も噂に聞く。

*5:後は編集の問題ではなく、元発言の問題なので注として書くが、引用「当時はまだCではなくBの時代」←(注: C言語でほぼ全部が書かれたUNIXバージョン6のリリースが1975年であり、B言語で開発中だったとしたらもっと以前の渡米の事をごっちゃに話している)、引用「オープンソースで開発されていたため」←(注: 米国の独占禁止法が理由で、当時のAT&Tは、ベル研でのコンピュータに関する成果はオープンにしなければならなかった、という複雑な事情があり、簡単に「オープンソース」と表現するのは語弊がある。また、UnixC言語の日本への紹介は石田晴久先生が積極的におこなわれ、システムハウスではSRA社など、多くの新しいスタイルの会社が生まれ大きく育ったという事実からは、当時の日本でUnixが相手にされなかったようなもの言いは正確とは言い難い)。