7000オーバーまできっちり回せ!
クルマ漫画あるいは車マンガ、というジャンルがある、と思う(両方とも漢字にするとちょっと重過ぎるし、カタカナにするとちょっと軽すぎる)。
ゲームがシリーズとして続いてるから近年の作品であると私のような年寄りは錯覚しがちだが、『頭文字D』に『湾岸ミッドナイト』のどちらも前世紀の作品つまり初出は四半世紀近く前であるし、それぞれの作品の性格の違いが、セガとナムコという性格の違うゲームブランドと面白い対照になっている、という気もする(実際にそれぞれの初代作のプロデューサーがその作品を選んだ、という所がそれなのだろう)。
さて、私が初めて読んだクルマがたくさん出てくるマンガは、思い出してみるに、『デイトナに虹を見た』というちょっと変わった作品で、後年の『栄光なき天才たち』のようなドキュメンタリーっぽい(ただし、特定の人物に焦点を当てているわけではない)ものであった。タイトルからはわからないが、東洋工業(マツダ)のロータリーエンジン開発を描いた作品である。「デイトナに」というのはその24時間レースのことを指しており、RX-7 でGTカテゴリに参戦し好成績を上げた所までというストーリーになっている。
その後、マツダロータリーは1991年にル・マンを制したわけだが、そのぴったり四半世紀前、1966年のル・マンが、先日公開の映画『フォードvsフェラーリ』のクライマックスである。
思うに、ホンダF1のいわゆる「第二期」の終結とも同じ頃であったマツダ787Bの優勝と撤退は、日本のモータースポーツファンが欧州での大レースに湧いたその頃のブームの終わりの一つだった、という感じがある。そして、近年トヨタが勝つまでは日本勢の勝利は無かったわけだが、1966年に始まるフォードの連勝もまた、アメリカ勢によるル・マン勝利は空前にして絶後であるという、ある種の特別なものだという印象がアメリカのレースシーンから見て、あるのかもしれない。
映画は、アストンマーティンを駆るシェルビーがル・マン勝利(史実では1959年)を回想している描写から始まる。ハリウッド映画のルールに沿って、主要な登場人物の紹介となる場面が続き、そのラスボスが、エンツォ・フェラーリその人であろう。ネタバレなので詳細は省くが、火とかハンマーとか競技規則といったモチーフがあまりにも作劇作法通りという感じで繰り返し使われるのは、もはやどうかという感じもある。音楽でいうならこれはカノンとかの時代まで先祖返りしているのではなかろうか。日本人が見る際に、事前知識が無いとわかりにくい人物は多分ひとりで、アイアコッカ氏だろう(他はだいたいわかりやすいか、作中で説明的描写がある)。どんな人物かはウィキペディアを見ればだいたい書いてあるが(wikipedia:リー・アイアコッカ*1)上司であったマクナマラ氏が主にベトナム戦争絡みで下げる評価が先行しがちであるのに対し、フォードでの(この映画で描かれた)成功と、その後のクライスラー再建の成功という背景を知っていると、いろいろ見えてくる映画中の描写があると感じた。
それはさておきストーリーのほうに戻ると、流石に半世紀前のモーターレース界隈は、私の世代がリアルタイムで見慣れたレーシングカーの世界ではない。エンジンの位置こそリヤ・ミッドシップにはなっているが、いわゆる「Cカー」と呼ばれたペッタンコなあのクルマの時代、2020年の今日、トップカテゴリ LMP-H としては終わろうとしているあのクルマの時代がまだ始まっていないのである。
レーサーの名前も、私が初めて接した時点で既に神話であった人ばかりである……が、一人、「マクラーレン」という名前が出てくる。本人は1970年に事故死してしまったものの、あの「帝国」と呼ばれることもある強豪コンストラクターの初代を*2創設し、自ら走ったのが、この映画にも登場するマクラーレンその人なのである。これも知らなければ「同じ名前だな」と思ってしまう所か。
WIRED誌の映画評(和訳で読んだだけだが)では、良い映画だけども、技術ドキュメンタリーではないとか、モータースポーツを描いていないという評で、いずれも間違ってはいないが、無いものねだりというか、それはこの映画に必要なものではない、という気がした(技術に関してはチューリングの映画に、コンピュータ科学の専門家が持った感想と似たような所はあるだろう)。バトルそのものとしては全く違うわけだが、赤いカラーリングの車と青いカラーリングの車が、あの直線で競うという場面は『ミシェル・ヴァイヨン』(2003、モータースポーツ映画としてはストーリーが荒唐無稽、という評がある)を思い出したが、それでいいのではないだろうか。チャンスを待って待って待って……そしてパスする、というリアルなモータースポーツを見たいならば実際のレースの動画を今はいくらでも見られるのだから。
たぶん、タイトルの「フォード」も「フェラーリ」もダブルミーニングであって、どちらも、チームや車のことを指していると同時に、それぞれの総帥を指してもいるのだろう。レースが終わった後、マイルズがメインスタンドの上のVIP室を見上げるとそこには……というシーケンスに、私は深い意味があると感じたが、どうだろうか。