『日本沈没』に見られる科学用語の濫用

およそ学術においては、自らの分野の専門用語を正確に使うことと同様に、慣れない他分野の専門用語を間違えて使わない注意は重要であろう。コンピュータ科学においても、近年の「学際共同」とやらで他分野にご迷惑をお掛けしていることも多々ありそうに想像する。もし問題があったら、ご指摘・ご鞭撻をお願いしたい、と頭を下げる他無い。

さて、『日本沈没』についてである。SFにおいても、「と学会」などで他所様にオフェンシブな姿勢を見せたりした以上、自らについても襟を正す必要はあるだろう。もっとも、今さら私が少々の瑕疵を上げてみたところで騒ぎになりそうにない作品を選んでいる点では惰弱と言われてもしょうがないかもしれないが。

日本沈没』におけるSFの基本的な手法すなわち「大胆な外挿」には何の問題もない。作中(以下、カッパノベルス版のページを示す*1)たとえば「トンネル効果」を持ち出している場面では(下巻 pp.89~90)別の登場人物がきちんと注意を入れているし、素粒子で起きる現象がそのまま起きていると言いたいわけじゃない、とフォローが続いている*2。あるいはほぼ架空と思われる「ナカタ過程」(小説では暗示にとどまっているが、他メディア版では「日本沈没」を説明できる理論と明にあるものもある。あと「マルコフ過程」のような呼び方を、提案者に敬意を表したものではあるが「尊称」と言うかどうかは少し微妙かもしれない)についても特に問題は見受けられないように思う。

しかし、私の感覚で「これはダメだろう」と感じる点として以下に2個所を挙げる。これだけの力作でわずかこれだけというのはむしろ驚異的な少なさと言えるかもしれないが、それでも、過去に指摘されているのを見たことは無いように思う。

問題がある点の一つめは上巻 p.263

カントールが「集合」を考えつめて自殺し、テューリングが「万能テューリング機械」の理論的可能性を証明して自殺したように……

カントールが集合を深く考えていたであろうことは確かであるし、自殺の主因は心を病んだことそのものだろうとは思うがそれはともかくとして、チューリングの方が問題である。チューリングの自殺前の時期の仕事は生物に関してであって、(万能)チューリング機械は戦前の若き日の仕事であるし、万能チューリング機械というのは、現代の言葉で言うなら、ある程度以上の機能を持ったコンピュータであれば、他のどんなコンピュータをも、速度などはともかく理論上はエミュレーションできる、ということをフォーマルに(形式的に)定義された一種のコンピュータと言える「チューリング機械」で示したもので(その理論的可能性を示すことそれ自体は)そう悩むようなものではない。*3

もう一つは、下巻 p.9、かなり長い「首相の内面描写」の最初のあたりに、

コンピューターがさらに高度に発達し、政治というものが、ゲーム理論選択公理を組み合わせた一種の自動装置になってしまう日が、いつかは来るにしても――

ここで「ゲーム理論」はまさしく政治(と経済)の理論であるから良いのだが、問題はそういった政治的決断とは全く関係のない数理論理の公理の「選択公理」である。言葉の響きから使ったもののように思われるし、執筆当時のフィクション作品では珍しくもないもののひとつではあろうと思うが、少なくとも狭義のハードSFであったなら(『日本沈没』はそれを狙った作品ではないが)避けたい記述だろう。直後の「ラプラスの魔」などその前後も少々きわどい(ラプラスの悪魔は、仮に、現在の状態を「全て」知る存在があったとしたら、未来も全て知っているのと同じことだ、という思考実験であり、当該の部分にあるように、未来に予測不可能なものがあることを示したものではない)が、「選択公理」ほどにまずいものは見当たらないように思う。

*1:手元にあるのは近年の増刷版だが、ページ位置の移動は無いものと思う。詳細には未調査なのだが、いくつかの文庫版とノベルス版で『日本沈没』には冒頭部などにいくつかの差異を確認している。

*2:この部分にある氷河の話はきちんと元ネタの論文はあるらしいが、それでもこの部分が完全にありえないことか、実際に地殻で起きる可能性があることかは興味がある、というようなことを確か堀先生が書かれていたと思う(探し出せなかった)。

*3:あと、すこし細かいことになるが、万能チューリングマシンは、どちらかといえば具体的・構成的に示されたもので「理論的可能性」というのも少し違和感があるかもしれない(この分野で「理論的可能性」という表現では、単に「存在する」としただけの証明だったりすることがある)。